ちょろいおたく

K-POPを中心に日常などを細々と。

8月15日という日

 

 いつか、どこかで、誰かにこの話をしないといけないと思っていたことがあります。それが8月15日という日の話。日本では「終戦記念日」と呼ばれ、正午には黙祷が捧げられる。

 そんな日に、私は生まれました。

  それから四半世紀以上が経ち、何度も迎えた誕生日は非常に気持ちの悪いものでした。というより、素直に「誕生日だ!」と喜びにくいなとずっと感じていました。それは今も続いているし、この先もずっと感じるのだと思います。けれど、理由は年代によって少しずつ違います。

 最初は保育園~小学校低学年ぐらい。この日が何の日か知らない子供であった私は「夏休みだし、お盆だから友達に会えない」という理由でこの日に生まれたことを嘆いていました。学童もやっていないし、当時集合住宅に住んでいたけれど周りはほとんど帰省をしていたので基本的には誰にも会えなかったのです。それが嫌でした。

 そこから理由が変わったのが小学校中学年~高校ぐらい。図書館で歴史の本を読み漁っていた私は、この日が「終戦記念日」であることを知りました。それまでも少し感じていた「8月15日独特の静けさ」みたいなものの答えが分かったのです。朝起きてテレビをつければ式典関連のニュース。正午には黙祷。そして夜は戦争に関するドキュメンタリーやドラマ。自分にとっては誕生日なのに、どうしてこんなにしんみりしてなきゃいけないんだろう…。起きた出来事とかはわかっていたけど、なんとなく「いやだな」という気持ちがまだ7割ぐらい残っていました。

 そして高校在学中ぐらいから、また少し理由が変わりました。この日が何の日なのかもわかり、当時何が起きていたのかも知り、「今日はそういうもんだ」という気持ちも持つようになっていました。しかし20歳ぐらいまでは、私はまだ自分の生まれ育った日本での基準でしかものを考えていません。だから終戦…誤解を恐れず言えば敗戦。多くの犠牲を伴って迎えた何十年も前のこの日に、その時持てるだけの気持ちを持って思いを馳せました。そこにはもう「誰にも会えない」とか「日が日だから「誕生日だ!」と言いにくい」という気持ちはありませんでした。

 そうしてもう少し月日は流れ、最も重要なことを考えるきっかけがやってきました。2年ほど前から韓国や中国、アメリカなどをはじめ外国のコンテンツを追うようになったのです。25歳にして初めて海外(韓国)に行ったし、SNSなどでいろいろな国の人たちのつぶやきを見たりもしてきました。そうなると何が起こるか。「8月15日」の持つ、私が今まで「これだ」と思っていた意味と別の意味を知るのです。
 一番身近な例が韓国でした。韓国では8月15日は「光復節」となっており、「朝鮮の日本統治からの離脱(解放)」という意味で祝日となっています。故に好きな芸能人のみなさんもこの日はSNSにそれに関する投稿をしていることが多いです。それを実際に目の当たりにしたとき、また私は自分の誕生日が「すごく複雑な日だな」と感じました。歴史上、日本(大日本帝国)が朝鮮や満州などを統治してきたのは事実ですが、もちろんそこには元々の国々があったわけです。そこをいわゆる「韓国併合」によって日本の統治下としてきたところから「ポツダム宣言」によってそれをやめたことは日本の教育を受けた人ならわかると思います。故に、韓国側的な「解放された」という表現が、日本人である私にとってはすごくすごく複雑な気持ちになるのです。
 もちろんその表現は間違っていないと思います。ただ、いざそう言われると、いわゆる「支配をしていた」側の国の人間である私はなんとなくしり込みしてしまうのです。正直、当時の日本(大日本帝国)と今の日本ではあらゆるものが違います。だから「統治している/していた」なんていう思考は正直無いし、理解もできない。それと同時にこの先ずっと平和であることを願っているのは事実です。そういった複雑な思考の絡み合いが、私の誕生日観を再びあまりよくないものにしていきました。

 でもよく考えれば、原爆のことだってそうであるように「落とした/落とされ」た立場があるのは当然だし、「統治していた・解放した/統治されていた・解放された」立場があるのも当然です。だからそれぞれの主張は交わることもなく、言葉を選ばずに言うと「加害者/被害者」であることは過去にあった出来事的にはなんら間違いないのです。そうである限り日本で生まれ育った日本人であるわたしが、他の国の人々が主張することを全部「違う」とは言い切れないし、もちろん逆もそうです。しかし「向こうの立場に立って」ものを考えることはできます。立場の数だけ正解はあるのです。そうしてみたら、また今までとは違う世界が開けたような気がします。

 別にこの気づきみたいなものが世界を幸せにしたり、誰かを幸せにすることはありません。ただの自己満足です。だけど私は8月15日に生まれて、ずっと自分の誕生日にモヤモヤしてきた。モヤモヤしてきたからこそこの日について考えることができた。考えてみたら世界にはいろいろな歴史を経てきた人間がいるのだと考えるようになった。それだけです。

 まだ知らないことを知った時、またモヤモヤするかもしれません。だけど今は、この人生史上最大のモヤモヤをほとんど解消しました。そんな大切な日である8月15日に生まれたわたし、そして同じ日に生まれた世界中のみなさんの抱えた複雑な気持ちを、この文章が少しでも解消する手助けになればと思います。

 最後に。もちろん生まれたことは罪ではないです。だからどの立場の人も互いに言い合いましょう。「お誕生日おめでとう」と。